coffeetoffeeのブログ

遠い日を振り返ってみると、そこにはいつも家族がいる。    

家族4人で歩いて来た道
やっぱり楽しい事の方が多かったかな? 

ウィンブルドン

(選手の控室やビュッフェなど)

フェデラー

 

セレナ ウィリアムス(観客は半分に減ってしまいました)



いつもなら、6月末から7月になると世界中のテニスファンが待ちに待ったウィンブルドンの大会が行われるはずなのですが、
今年はウインブルドンどころか全仏オープンも、全米オープンも見る事ができません。
世界中が、こんな大変な時にテニスどころではありませんもの。


もう数年も前になってしまいましたが、娘の案内でロンドン郊外のウィンブルドンでオープニングゲームを堪能しました。


娘が用意したチケットは、ウインブルドンコートの大きな鉄の門の開錠と同時に、何故か私達二人だけの入場から始まるVIP待遇?のチケット(入場料は同額)だったらしく、そのまま着飾ったセレブの方々とご一緒に、全コートが見渡せるガラス張りの、美しいビュッフェなどに案内されて、いわゆるブランチやイングリッシュティをいただきながら(逆に緊張の)1日が始まったのです。 
ロイヤルボックスにはロイヤルファミリーの方々のほかに 往年のテニスプレイヤーがにこやかに談笑する姿もあり、華やかさを添えていました。


センターコートで、ディフェンディングチャンピオンのフェデラーの試合と、女子はセレナの試合を見た後、屋外のコートも時間を惜しんで、くまなく見て回った楽しい思い出があります。


杉山愛さんが屋外のコート7or8番コートで勝利したところも見ましたが、どこへ入っても私達に席を用意してくれると言う申し訳ない待遇でした。(何だったのでしょう)


辺りが暗くなる頃1日目の試合も終わり、静かになったコートを後に、いつかもう一度必ず来ようと心に誓ったのですが。。。。その日はいまだに訪れていません。


今も、娘とあの日のことは、「一体あの待遇はなんだったのでしょうね。」と夢の様な一日の事を、葵の御紋の様に首から下げていた、いまだに大切にしている金色の刺繍が施された黒いストラップの話を繰り返ししたりするのです。

雨。雨。雨。

(二女のM嬢からお土産にいただいたリヤドロのリトルダンサー)



。。。。。
薄日が微かに差込む窓辺でこれを書いています。
昨日の暴風雨が嘘だったかのように爽やかな朝です
朝食のイチジクがすっかり甘さを増していたことに幸せを感じた朝でした。


この数日は家から出るのは夕方の散歩の時だけ、それも僅かに4000歩以内です。しかも雨の日は空を眺めて過ごしながら、自然に口ずさむのは雨をテーマにした歌です。


子どもの頃から雨の日が好きでした。
姉たちのお下がりの長靴も傘も、そして水溜りで遊ぶのも大好きでした。
大声で濡れるのも構わず、知っている限りの雨の歌をはしゃいで歌って遊んでいたように思います。


でも年頃になって少し変わりました。通学時にスカートの裾が濡れてしまうことや、せっかく整えた髪がぺっちゃんこになってしまうのがとっても嫌でしたし、雨の日は憂鬱な思いで登校したものです。


しかしいつしか時が経って、「雨」は私に楽しみだけでなく、青春のロマンや寂しいことも山ほどあることを教えてくれていることに気がつきました。


それからずっと後になって
ある日、偶然カーラジオでさだまさしの「雨宿り」を聞いた時のこと、
何故かホンワカウキウキと、嬉しくなった感覚を今でも覚えています。
それからはファンの一人となって今では、「雨」違いの雨でも夜空に降りしきる、夜空を埋め尽くす「流星雨」などきいたりしています。


数限りない歌手の「雨を歌った歌」、ここに並べれば、私は全部好きだというに違いありません。

人生の扉




このところ竹内マリアさんの「人生の扉」が
頭から離れないのです。


 ♬春がまた来るたび ひとつ年を重ね


と始まる歌詞に春に生まれた私は単純に共感を持ってしまうのでしょうか。
海外に住んでいる二女がfacetimeに登場すると、彼女のウクレレに合わせて
「音が外れているよ」と言われながらも何度も何度も口ずさむのです。
当然大好きな歌ですが、歌った後にしんみりしてしまう事が多くなりました


一年程前の事、夕飯の後、
可愛い孫のMちゃんが、私に真面目な眼差しで、
「ね〜おばあちゃまは、なんのために生きているの?」と突然聞いたのです。
その頃、Mちゃんは厳しい中学受験に合格したばかりで、胸膨らませて希望への一歩を踏み出したばかりでした。


そこにいたMちゃん家族は私のことを気遣って、一瞬、魔法を使って時間を止めたかようにしずまったのを感じました。そしておもむろにMちゃんのママ(私の長女)が、「おばあちゃまはこれまで私達を育ててこられたのよ」と答えていたように思います。


優しい素直な孫が、久しぶりに会った老いた祖母への疑問を持ったのは、よくわかりますし、私が寂しいのでは?と心配しての孫の質問だろうと感じたのです。


私は「今は自分が生きるために、自分のために生きているんじゃないかしら?」と他人事のように軽く答えてその場の(時間の魔法)を解いたように思います。



今日も、一年前にこんな事があったことを思い出しながら
また違った思いで再びこの歌を繰り返し歌っているのです。
最後の
I say it’s sad to get week
You say it’s hard to get older
And they say that life has worth living
But I still believe it’s worth living
But I still believe it’s worth living
になるとただ、♫うん・♫うん・とうなずくだけでもう歌になりません。